情報発信できない「臆病な完璧主義者」へ…すべての過程をアートと考える

情報発信できない「臆病な完璧主義者」へ…すべての過程をアートと考える

このサイトのドメインであるshimmura.comを取得したのは10年ほど前だろうか。
当時は行政書士に合格したばかり。
これから自分が打ち出すサービスとブランドの未来についてとてもワクワクしていました。

今までの士業事務所と一線を画すようなスタイリッシュなWEBサイトをフロントに、
UXに優れたサービス、カスタマーの声、プロジェクトの進捗、そして日々自分が考えていること…

多くの方に向けて発信しトラフィックを生みだそう・・・僕の未来は行政書士だけに収まらない
先ずはブランドの礎になるようなドメインを・・・夢と希望に溢れて取得したのを覚えています。


まだまだSNSは発達しておらず、

ブランドにおけるドメイン名が今より重要視されていた時代
僕が鈴木さんや佐藤さん、田中さんだったら「名字.com」にするのは極めて難しい。

なのでこのURLにできたことはワクワクを加速させました。

「ニイムラさん? あ、shimmura.comやからシンムラさんか」

…僕の名前は読み間違いが多いからフリガナにもなるな、と今から思えばつつましいことに喜び、名刺に載せるのを心待ちにしたものです。

さて、ドメイン取得から今年で10年目
僕が糸井重里であればおよそ3300日分の今日のダーリンが書き連ねているはずのshimmura.comはどうなっているでしょうか?

なんと1投稿すらありません。

投稿するようなイベントや出来事がなかったわけではありません。
さすがに10年もあるとWEBにアーカイブされなかった様々な出来事、思い出そして思考がありました。

(東京国際フォーラムで起業家としてプレゼンしたこと、初めての論文で学会賞をとったこと、高卒から大学院に入学したこと、地方創生に夢を見て、そして破れたこと…)
よかったこと、そうでないこと、おそらく胸を張れること、恥ずべきこと・・・。

タラレバを言っても仕方ないですが

たぶんシェアすれば何かしらにはなっていたと思います。

ではなぜ投稿しないのか?なぜ、こんなにも筆が重いのか?

なぜ僕は何も情報発信できないんだ?

臆病な完璧主義者

要因はいろいろあると思いますが、

そのひとつはブログの書き方でググると概ね出てくる

「見る人のためになることを発信しよう」という言葉。



おそらくその真意は「ランチの報告(orカフェで仕事)ばかりしても仕方ないですよ」

という戒めだったのだろうと思います。が、

自分の中の臆病な完璧主義者

「自分は発信できるほど何か秀でてるだろうか?」
「(ネット上にあふれる天才達と比較して)こんなショボい実績でバカにされないかな」とアラートを発する。

もう少しちゃんとしてから情報発信しよう、もう少しすごくなってから情報発信しよう・・・


ちょうど時代が最短最速、勝ち組負け組、わかりやすい成功をもてはやしていたせいかもしれませんが、

すごくない自分をさらけ出すのが怖かったんだと思います。

そもそも産声をあげたばかりのブログなぞ、便所のラクガキよりも目にされないわけですが、

この臆病な完璧主義者は自意識過剰でもあって「自分が楽しむ」という最も大事なことすらも脇に置いてしまうのでした。

あなたを誰よりも楽しみにしているのは「自分自身」だ

10年というのは「すごくない自分」であることを理解するのに十分な時間です。
すごくない自分を許すことはできるようになりました。


だけどなぜかできなかった。

それはそもそもなぜ情報発信しなければいけないのか?というセンスメイキング(腹落ちのデザイン)がなかったためだと思います。

もちろん我々個人事業主も商人なわけですから、PRのため、売上のため、ブランドのため…に情報発信するのは好む好まないに関わらず義務といってもいいかもしれない。

しかし、良くも悪くも一旦売上サイクルが完成されてしまうと、それらは情報発信を頑張るニンジンにはならない。(一応FBは投稿していて、そこ経由の依頼はチラホラありましたが)

話は変わりますが、Facebookが日本上陸した当時、実名制であることから日本人に馴染まないのでは?と言われていました。名前と顔を公開しないことがどこか良い子のお約束だったのです。

ところが現在、tiktokのようなサービスが生まれ、世界中のティーンに受け入れられ、顔出しどころか多くの短いダンスが共有されている…こんなの誰が想像できただろう。

ではあのtiktokに無数に共有される短いダンスなどは、誰かに役立つ目的で踊っているのでしょうか?

短いハウツーがあったりするので情報発信ツールとも言えるのでしょうが
やはりtiktokなどの生態系はなによりも本人が楽しむことによって支えられています。

誰かの役に立つ情報発信ではなく、自らが楽しむことでコミュニケーションする。

これだ、これが足りなかったのだ。

自分の仕事や人生を楽しくするために、

自分に対して情報発信しよう。
何かを感じ、手を動かす過程…

そのすべてをあなたのアートと考えよう。

結果として誰かの役に立つことがあるかもしれないが、
まずは自分の感動や楽しさを大事にしていいじゃないか。

僕以外に臆病な完璧主義者がいたとしたら分かち合いたい。

人が何かを生み出す過程はアートそのものだ。

無条件に美しい。
例え駄文だとしても世界は破滅したりしないから安心してほしい。

それに我々からアートや楽しむことを奪う権利は誰も持っていないのだ。
最も枷をはめようとするのはひょっとすると自分自身かもしれない。

Nintendo Switch OnlineでMother2が配信されていたのでプレイしている。
リアルタイムではやったことないが、あの「マ~ザ~2~~~、マ~ザ2~」というCMだけは覚えていた。

ジェフのパートに場面転換して間もなく、ガウス先輩からストーリーを進めるのに必要なちょっとカギマシンという機械をつくってもらう。

その時、ガウス先輩がジェフにかける言葉がまたいいのだ。

「そのくらいのことはできそうだぞ。もっとせっきょくてきにいきてみろよ。ジェフ!」

実はジェフを自分の名前でプレイしていたのでことさらに響いた。

楽しむことを遠慮しない。もっとせっきょくてきにいきてみるよ。